ポケモン
2021.5.24
歌でもドラマでもゲームでもなんでもいいんですけど久しぶりに触れると
「あぁ、昔に戻りたいなあ」
って思わされるものってありませんかね?
僕の場合「目指せポケモンマスター」を聴くとそう思うのですが、大抵の人は何かしらの引き金が引かれた時、「♪なんにも知らない子供に戻って〜あぁやり直したい夜もたまにあるけど〜」状態に陥ることがあると思う
ただ每日小学校に行って放課後に友達と遊んで飯食って寝る日々が今よりも輝いて羨ましく見える理由ってなんなんだろうって時々真剣に考えるんだけど、2つの理由があるんじゃないかなあって
①年をとるにつれて人間は人と比べるようになってしまう
②人間は過去の記憶を美化したがる
①について
お金とか彼女とか仕事とかスペックとか運動神経とかブランド品とか…
とにかく小さい頃には見えなかった人間としての格差が大人になるにつれてうっすらと見えるようになってくる
そして段々と周りの人間と比べて劣っている自分に気づいて「もっとお金があったほうが!もっと女の子にちやほやされたほうが!もっと社会的な地位を得たほうが!」
と自分がもっていないものばかりに目を向けて今の自分を否定し続けるようになってしまう。
昔は自分の劣っている部分なんて気にしたこともなかったのに
これに関しては「日本の教育が悪い!」とか言うのは簡単だけど人と比べるって人間の本能だと思うから難しいですよね、それでしか自分を判断できないし…
②について
これも人間の本能だと思います
厳しい部活だったりイジメみたいな思い出したくない過去が未だにまじまじと脳裏に焼き付いて離れないのであれば、每日が息苦しいですよね
過去の思い出したくもない記憶が鮮明に每日フラッシュバックしてるようじゃ一生トラウマで苦しみ続けますよね
クソ厳しかった部活の顧問を引退後に好きになる現象からもわかるように
「あの時は嫌だったけど今になってはよかった」
って思い込むことで昔にあった嫌なことを忘れさせる本能?機能?が脳にはあるのだと思います
はぁ
過去のほろ苦い記憶を脳の奥深くに無理やり押し込んで、楽しかった思い出だけを都合よく並び立てて、「昔はよかったなー」といつ会っても昔の思い出話でしか盛り上がれない人間にはなりたくない
常に「今が全盛期!」と思えるような人生でありたい
思い出はいつもキレイだけどそれだけじゃお腹がすく
抽象的な話ばっかりですみません
何より僕は今日、今後数年で会社の給料が毎年たったの数千円ずつしか上がらず、そのうちみんなに追い抜かれてしまうことを知ってしまったのです
清貧アピールではないけど貯金にまで回すお金ってあるのかなあと漠然と考えます
(春日さんという男はやっぱりすごすぎる)
話があっちいったりこっちいったりしたけど要は、
こうやって悩んでる今もいつかは思い出になるから結局今を頑張るしかないですよね
いろんなものと比較していろんな執着が生まれる今日この頃だけど
「いつかはあんなクソみたいなことで悩んでたなー」って思えるように
あの頃みたいに每日を楽しめるように
今を全力で生きていきたいです。
自分のフィールド
2021 0206
高校1年の冬、部活を辞めようとした
親にも部のみんなにも報告して、あとは顧問に報告するだけだった最後の練習中
「やっぱり辞めないほうがいいなー」
急遽、辞めることを辞めたことがある。
その時の僕が辞めなかった理由は今でもハッキリと覚えていて「この人間関係がなくなったら後悔しそう」「女の子に変な印象を抱かれる」という2つなんだけど、
もしも今、当時に戻れるとしたら何の後腐れもなく辞めていたと思う
絶対に、何があっても、必ず辞めている
妄想の話であるにも関わらず、何がなんでも辞めてやると誓っている
それはすなわち、「野球が下手だった」からだ
別に下手と言っても全く試合に出れない訳ではなく、丁度スタメンと控えの狭間で試合に出れたり出れなかったりではあったのだが、
それでも僕はスポーツには向いていなかった。
こんなことを言っては教員に怒られるかもしれないが、運動神経なんて所詮遺伝子だ
スタメンもパワーも足の速さも、強豪校の並外れた練習量を除いては全部遺伝子だ
小2から野球を始めたのに、中学からのヤツに正捕手を取られたヤツが言うんだから間違いない
人には人のフィールドがある
勉強が得意なヤツは勉強を頑張るべきだし、運動神経が得意なヤツなら部活を頑張れば良い
他にも顔が良いならそれを武器にした生き方をすればいい
今を頑張れる人間が最強だとは思うのだが、
とにかく自分のフィールドで勝負している時、人は1番輝くと思うのだ
そしてこの歳になって初めて、僕は自分のフィールドで勝負できる時が来たと思っている。
だから他の人が人生ゲームの1コマのように迎える「就職」とは訳が違う
就職のコマは僕にとって、通過地点ではなくスタート地点なのだ
世界史は学年で1番できたのに日本史の再試では赤点を取り、生徒指導室で怒鳴られたあの日
「うっせえクソデブが!!」
と思った自分を、この歳になって改めて褒めてやりたい
足るを知る
「お前がいっちゃんマトモだからなー」
二週間の帰省を通して最も印象に残った友人たちの言葉だ。僕は今、冬を纏いつつある富士山を眺めながらこの言葉を反芻している。
今回の帰省の目的は彼らとBBQに行くことだった。だが目的であると同時に、帰省自体が少し怖くもあった。それはコロナ禍で会えずにいた内に、自らの存在感が薄れているような気がしていたからだ。僕には僕の日常があり、みんなにはみんなの日常がある。そして僕だけが知らない内輪ノリに愕然とし、益々輪に入りづらくなっていく。
そんなことを考えながらコンロの後片付けをしていると、音楽が聞こえてくる。誰かの誕生日でケーキが運ばれてくる時によく流れる、世界で一番歌われている歌としてギネスに載っているアレだ。あまりにベタすぎて少し勘付いたし、そもそも誕生日まではまだ2週間もある。「あぁ、ここにいてもいいんだ」みんなの日常に僕は相変わらず存在していた。
執着と欲望にまみれた灰色の街ではどうしても自分と他人を比べてしまう。「今日よりもっと良い自分に」「まだまだあいつには敵わない」なんて考えざるを得ない環境が日常になったことで、僕は自然と自己肯定ができなくなってしまっていたのかも知れない。
衣食住はもちろん、車を20分走らせれば遊園地だってある。この街は高望みさえしなければ大抵の欲望は満たしてくれる。そしてみんなは大体の欲望は満たされる現代で、特別向上心を持たなくても幸福を感じられる、物凄く“マトモ”な人間だと思う。僕もとことんマトモになって、自分を認められる強さを手に入れたい。バスが東京に着くまでに、そんな方法が一つでも思い浮かぶだろうか。
僕は何も変わらないみんなに、“あの街”に憧れている。
キャンサーギフト
2020/8/16
「キャンサーギフト」という言葉がある
キャンサー=がんで、ギフト=贈り物。即ち「がんを経験したからこそ得られるモノ」という意味だ
強烈な副作用や先の見えない日々が、周囲の人への感謝や当たり前の尊さを思い出させる。24時間テレビを嫌う人たちがいかにも煙たがりそうな言葉ではあるが、祖父を白血病で亡くした身としては、スッと心に入ってくるなぁと感じる
時は高校3年の6月に戻る
部活への名残惜しさをかき消し、受験ムードがクラスに立ち込めだす頃だろうか
そんな時期に、
「〇〇と〇〇が付き合ったらしい」といった類の噂が回ってくる
僕は本気で思った
「こんな時期に付き合い始めるカップルは馬鹿だ」
手を繋いでは進学塾へと消えていく2人に向かい、吐き捨てるように呟く
似た思考の友人と想いを増長させ、「いかにもこちらが正しくてまともだ」と合理的な自分たちを正当化する毎日
刹那の興奮よりも、将来からの逆算に基づいた行動が大事だと思っていた
(事実、僕は文武両道を体現する模範生として扱われていた)
この思考癖は今でも治っていない
ヨーロッパを旅した時も、インターンを始めた時も、「就活のため」という打算的な魂胆が何処かに眠っていた
「今を頑張って犠牲にすれば、必ず明るい将来が待っている」
そして2020年、明るい将来は僕にやってこなかった
憧れていたキー局には入れず、10年越しの思いをたったの5分で否定される日々
自分の中で何かが崩れた
情緒不安定で夜になると涙が止まらなくなった
打算的に生きてきたこれまでの人生が無駄になった気がしてならなかったからだ
当たり前が当たり前でなくなった今、初めて気づく
将来への過度な執着は、叶わなかった時の自分を苦しめる
人生は今・今・今の連続で、興奮を信じれば世界は楽しいことに溢れている
これが僕にとっての「コロナギフト」だ
幸せの演出家
2020/7/29
最近、インスタを見るのが何だか億劫になってしまった
そもそも僕は、あまり人に興味がない人間である
「最近何してるの?」と話しかけることも多いが、内心はただの話題作り
数少ない友人のことは知りたいと思うが、それ以外は「どうしたら面白くできるかなー」と笑いに逃げることばかり考えている
そんな僕にでも回転寿司のように流れては消えていく近況報告を受け止める「心の余裕」くらいは持ち合わせていた
ところが最近は、そんな心の余裕があまりない
父親と就職先のことで揉めているからだろうか?
父は僕に、「幸せの価値観」を無理やり押し付ける
残業が少なく、毎週きっちり2日休めること
大型連休には友人と海外旅行に出かけること
郊外に庭付きの一軒家を建て、休日には公園で子供と遊んでやること
そしてこれは恐らく、多くの人にとって(勿論僕にとっても)幸せな人生だと言える
でもどうだろう、それと同時に何か別のものを失っているのではないか?
休みがしっかり取れる人間が、日曜の夜にサザエさんを見て憂鬱になること
家族という名の安住の地を手に入れることで、挑戦的に生きづらくなること
それなのに人は「この生き方が幸せだ!」と悪い面はなかったことにし、良い面だけを切り取って他者に押し付ける
ここに何かのヒントがある気がした
皆の知らない隠れ家的名店をたくさん知っていること
多くの友人に囲まれ、夏には河川敷でBBQをすること
誕生日には恋人と高層ホテルのビュッフェに行くこと
インスタという名の回転寿司では、誰一人としてマグロしか握ってくれない
そして中にはもっと巧妙に、鉄火巻にして出してくる奴もいる
ヒカリモノのような個性はあまり存在せず、そんな投稿はアーカイブへと葬り去られていく
マグロは確かに美味い
でもそれ以上に、「マグロは美味いだろ!」と言わんばかりの一方的で押しつけがましい演出家たちに、僕は違和感を抱いているのかもしれない
自分しか認めることのできないプライド
2020/7/20
今日は最終面接があった
大学3年の6月に就職活動を初めて、初めての最終面接(我ながら本当に情けない)
内容は100分間での社長との面談だった
「お前は全く嘘をついていない人間だ」
「素直でストレス耐性がある」
全くの虚偽回答だ
僕だって面接のために「the・制作会社に受かりそうな人間」を演じている
この時期にもなって1つも内定をもっていない男がなんとか資本主義の世の中を生きながらえるには、自分を取り繕ってでも資本主に媚を売るしかないからだ
そうでもしないと、「結果」でしか人を動かせない映像制作の業界において、「こいつをウチの会社に迎えたい」なんて思ってもらえるはずがない
面接が終わると、帰り道に一緒になった2人と飲みに行くことになった
1人は日本大学芸術学部映画専攻(著名な映画監督を生み出しているあの日芸)、もう1人は僕と同じくテレビ業界しか受けていないコンテンツバカ(将来的に見られることになったらごめんなさい)
「お金なんかよりも自分のやりたいことだよなー」
「キー局よりも制作会社でしぶとく生きていきたいよな!!」
若気の至りにも程が有る。
恐らく、もしも今日の面接官が隣の席で坦々麺をすすりながら僕たちの話を聞いていたとしたら、彼らは全ての肉味噌を右鼻の穴から吹き出して言うだろう
「仕事をなめんじゃねえぞ!!!」
でも、それくらい今の僕たちは希望に満ち溢れている
仕事を「金稼ぎの手段」「1日8時間の耐久レース」と捉えている同級生があまりにも多すぎる)中で、そんな鼻くそ肉味噌よりよっぽどちっぽけな希望を抱けることがなんて幸せなことなのであろうか
「お前はやりたいことがあっていいよなー」
中学2年の4月から本気で「テレビ業界で飯を食いたい」と思い、大学4年の7月まで揺るがない信念で生きてきた自分を、自分だけは褒めてあげたい
酔っぱらったついでにブログを書いてみました